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中世末期の伊賀は,国人・地侍衆が惣国一揆を結び,一国衆議による「自治」支配を行っていた。一方,伊賀の領国化をねらっていた伊勢国司北畠氏は南伊賀の高尾・霧生(青山町)に出城をもち,北畠家の養子となった織田信雄は天正6年下神戸に滝川勝雅(のち雄利)をして丸山城を修築させたが,国人衆は先制攻撃して城を預っていた滝川勝雅を伊勢に敗走させた。同7年信雄は青山峠などを越えて伊賀に侵入したが,敗北して松ケ島へ逃げ帰った(第1次天正伊賀の乱)。同9年信長は4万の大軍で伊賀の四方より侵入し,伊賀全土は焦土と化して壊滅した(第2次天正伊賀の乱)。乱後,当郡は信雄が支配したが,豊臣秀吉のとき脇坂安治が伊賀上野に封じられ,ついで同12年筒井定次が大和国郡山より9万5,000石で入封し,阿保に岸田伯耆3,000石をおいて統治させた。定次は関ケ原の戦に東軍に属して本領を安堵されたが,慶長13年家臣団の暗闘から家臣が徳川家康に訴えたため,酒色にふけり政務懈怠を理由として除封された。慶長13年,藤堂高虎が伊予国今治から津に入封し,伊賀一円と伊勢国安濃【あの】・一志両郡22万3,000石を支配して,上野には城代が置かれることになった。以後明治維新にいたるまで,当郡は津藩領であった。村数・石高は,「寛文朱印留」50か村・2万7,953石余,天和年間頃(統集懐録)にも同じで,本高の内訳は田2万4,574石余(88%)・畑3,378石余(12%),平高は4万353石余(本高の1.44倍),「元禄郷帳」50か村・2万7,953石余,「天保郷帳」50か村・3万216石余,「旧高旧領」61か村・3万298石余。「天保郷帳」によると,当郡は依那具・上之庄・山出・猪田・郡・神戸【かんべ】・才良・沖・市部・比自岐・岡波・北山・勝地・妙楽寺・滝・下河原・伊勢地・奥鹿野・種生【たなお】・河上・高尾・霧生・腰山・諸木・福川・老川・阿保【あお】・柏尾・岡田・寺脇・別府【べふ】・羽根・比土・古郡・小波田・中・東田原・鍛冶屋・東谷・南・安場・湯屋谷・菖蒲池・界外・蔵縄手・予野・桂・大滝・治田【はつた】・白樫の諸村からなる。「宗国史」によると,依那具郷15か村・比自岐郷4か村・北山郷7か村・阿保郷7か村・種生郷8か村・小波田郷4か村・古山郷8か村・予野郷8か村の各郷に大別される。家数・人数は,慶長13年1,975軒,慶安4年3,826軒,寛延年間5,330軒・2万2,557人(宗国史),延享元年2万3,330人,うち男1万1,903人・女1万1,427人(庁事類編)。郡内各村は大庄屋の居住地名を冠した組に統轄され,羽根組亀井久太夫・猪田組森田弥兵衛・治田組市田与三兵衛などが代々大庄屋を勤め,それぞれ10数か村を管轄した。大庄屋・庄屋の多くは無足人が勤めたが,無足人とは藩が土豪の懐柔と軍役の予備のために設けた身分で,藪廻り・山廻り・平などの階層があり,彼らは村の上層部を構成して農村支配の支柱となった。治田村の市田家や羽根村の亀井家などは御目見級であった。畿内よりの主要街道であった初瀬街道(神宮道・参宮道)は大和国より名張に入り,名張より阿保村に至る2里半,阿保村より伊勢地村に至る1里,伊勢地村より青山越えをして勢州垣内村に至る3里を経て一志郡三渡村で参宮街道(伊勢路)に合流した。阿保村と伊勢地村は街道に沿う宿場で,伊勢地宿には本陣のほかに10数軒の旅籠が軒を並べる。阿保宿は藤堂氏入国時より上野・名張町とともに商売・酒造の許された地で(宗国史),4軒の宿屋のほか店が並び,寛永20年12疋の伝馬が置かれ,問屋場を秋永家が勤めた。才良村は元禄年間ごろまで岡波村を経て大原越えをする宿駅であったが廃駅となった(三国地誌)。しかし,新田村が開発されると,同村が初瀬街道の名張〜阿保間の宿駅となった。藩は,寛永18年の凶作ののち,用水確保のため,同20年白樫村新池2・依那具村新池2・郡村池1など古池の修築・新池築造の灌漑工事を行い,さらに加判奉行加納藤左衛門直盛,土木技術者西島八兵衛が中心となって,積極的新田開発を進め,承応3年小波田野の水田150町歩・新畑50町歩の開墾を企てた。そして伊賀国中より1万2,900人の加勢人夫も動員して2つの大池を造り,翌年完工したが,入植者が少なく開墾は進まなかった。そのため一部を大坂の富豪安井九兵衛に,塩専売権と引き換えにして町人請負新田として開発させた。明暦3年・延宝3年の大雨で大池も決壊したため,高尾村から3里22町の用水路を作り,水田100町歩と畑50町歩の新田村を造った(宗国史)。産物は,米のほか,麻・木綿・煙草・漆など(宗国史)。ほかに,比自岐村の松茸,老川村のごぼう,滝村のやまのいも,奥鹿野村・諸木村のうど,諸木村・霧生村のくず,諸木村のもぐさなどが特産品であった。種生郷8か村・北山郷7か村は山がちの村で,山論も多く発生した。奥鹿野村と岡田・寺脇両村との山論は,慶長7年から発生し,慶長14年神前で灼熱した鉄棒を握りしめた方を勝ちとする鉄火の法がとられ,奥鹿野村が勝ったが,寛永3年・文化年間にも争論が再発している。その他,老川村は諸木(折戸山山論)・種生(古川落合山論)・別府(ハダメ山山論)・阿保の諸村と山論・山出入りを起こした(青山町史)。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同年名張郡とともに第10大区を編成。同年の戸数は4,897戸(各区戸長副戸長総代名簿)。明治4年旧来の平高制が本高課税に改められたが,翌年3月まで実施が延期されたため,期待が外れた農民の不満が爆発し,名張郡から暴動が起こった(平高騒動)。騒動は,その夜のうちに各地に波及し,奥鹿野村辺りよりも蜂起し,阿保町俵屋など4軒を打ちこわし,上野に向かう途中で猪田村の大庄屋,才良・沖・依那具の諸村の庄屋宅も打ちこわした(県史稿・伊賀大騒動記)。同9年の伊勢暴動では,青山峠越えした約300人が伊勢地村に入り,一隊は北山・比自岐両村を経て上野に向かい,他の一隊は阿保・新田両村を経て名張に向かったが,郡内からの参加者は,ほとんどなかった(伊勢暴動顛末記)。明治5年の寺院は95か寺,うち真言宗49・天台真盛宗18・曹洞宗16・浄土宗6・日蓮宗2・臨済宗2・真宗1・黄檗宗1(寺院明細帳/県史)。また,寺子屋は44(県教育史)。
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